僕たちの果て オフィスは音で溢れている。 扉の前でどうしてそれがわかるのかと聞かれれば、チャカチャカとヘッドホンから漏れてくるのと同じ耳触りな音が隔てた先から届くからだ。 こういうところもジャラジャラしていて、茜の神経を逆撫でする。かりんとうの袋に伸びかけた手を辛うじて留めると、もう一度ノックをした。 小脇に抱えた封書を渡しても今日の仕事は終わらない。事務次官並みに資料整理までさせられているのだ。なんでアタシが…と思えばムカツク。ムカツクがやらない仕事は終わらないと自分に言い聞かせて、己を宥めた。 しかし、室内から応えがない。 「…。」 仮にも上司だ。たとえ、それがジャラジャラであろうとも。 もう一度。握りしめた拳はノックへまわす。しかし、反応はなく茜は表情を険しくすると、ギリと歯噛みをした。 「…。」 もう一度、そう考えて茜は実行する前に扉を開けた。途端、廊下と茜に大音量という名の波が覆い被さる。 うっと言葉に詰まって、咄嗟に両耳を塞いで部屋を見れば、正面の椅子に深く腰掛け、書類を読んでいる牙琉検事が見えた。しかし、ノックは元より、彼女が入り込んでいることすら気付かない様子に、茜は小首を片手にかりんとう、片手に封書を持って耳を塞いだまま、小首を傾げた。 普段ならば、これだけの音を流していても、牙琉響也という男は人の気配に敏感だ。ノックをすれば茜が開けるまでもなく、このオフィスの扉は開く。 けれど、今日に限って、牙琉検事は全くノックに気付かないばかりか、こうして扉を開けたことにすら気付かない。カガク的に考えても、変。 ツカツカと(不本意ではあるが)勝手知ったる検事の部屋を歩き。オーディオのスイッチをオフにした。急に静まり返った部屋に、流石の響也も顔を上げる。間の抜けた表情は、茜の顔を見て愛想笑いへと切り替わった。 「やぁ、刑事くんじゃないか。遅くまで御苦労さま」 にこと笑う顔に向け、茜は無言で封書を突きつけた。(アンタのせいで残業よ!)とその顔には書いてあったが、引きつった口元は言葉にならなかった。片手が薬品をいれた試験管に伸びていた等とご愛敬だ。 「頼まれてた資料です。」 「うん、ああ。ありがとう。世話になったね」 礼讃の言葉と共に、伸ばされた腕は、茜が差し出した封書とは見当違いな位置で止まる。金属の触れあう音だけが間抜けに残った。 「…あれ…?」 怪訝な顔で再度向けられた方向も微妙にズレた。理由がわからずに首を傾げる響也に対し、茜はやっと異変に気が付いた。 この男は具合が悪いのだ。 平衡感覚がおかしいとすれば、発熱か三半規管の異常だろう。気配に疎いのも体調が悪いとすれば納得もいく。そう思ってみれば、顔色は悪いくせに妙に目尻だけ紅い。典型的な発熱症状だと茜は確信する。 「此処まで取りに来てもらえますか?」 差し出していた封書を胸元に引き戻し、茜はおもむろにかりんとうを食べ始める。 怪訝な表情はそのままに、立ち上がった響也の身体が傾いだ。立っていられずに、机に手を置いて身体を支える。自分の状態が腑に落ちないと告げる表情を一瞥し、茜が宣告した。 「カガク的に考えて、検事は具合が悪いと思うんですけど?」 「僕が…、なんで?」 理由なんか知るか。と、心の中で呟いてから状況だけを提示してやる。そして、こう付け加えた。 「真っ直ぐに立てないのなら、帰った方がいいんじゃないですか? なんだったら迎えでも呼んで。」 此処で検事を帰宅させれば、強制的に仕事は終了だと、茜の脳裏を掠めたのは罪にはならないだろう。連日この上司につき合って、深夜帰りを続けているのだ。 しかし、響也は微妙な表情で苦笑する。体調に関しては納得しているようだったが、困ったように前髪に指をかけた。 「ご忠告は有り難いけど、僕には…身内はいないからね。」 「そう、でしたね」 あ、これは拙かったかも。そんな茜の後悔に付け入るように、響也は机にそって茜の横に並ぶと、笑顔で肩に手を回そうとする。 「刑事くんに送って欲…「仕方ないわね、成歩堂さんとこの子、呼びましょう。」」 ぎょっとした表情の響也を歯牙にもかけず、茜は自分の持っていたかりんとうの袋と入れ替えに、響也の携帯を手に取った。 「いや、あの、刑事くん…。」 「何ですか。誰か他に宛てがあると?」 ぎっと睨まれ言葉をなくす。黙り込んだ響也の様子を、受容と処理した茜は躊躇いなど欠片もなく、携帯を開きお目当ての名前を呼びだした。 通話はすぐに繋がったらしく、茜は三秒とたたないうちに話し始める。 「あ、アタシ。」 受話器の向こう側で、まさしくオドロキの声を上げているのが聞こえてきて、響也は首を竦めた。結果的にまた王泥喜を怒らせる種を蒔いたかもしれない。 「うん、そう。そのまま帰してもいいけど、間違いなく途中で倒れるわね。まぁ、あんなジャラジャラでも上司だから、いなくなると余計な仕事が回ってきて大変なのよね。…いても大変だけど。」 その上に随分な言われようだ。反論する気にもなれずに、茜の様子を眺めていれば、こちらを向いた彼女が大きな溜息をつくのが見えた。 「全く、目の前でこれだけ言ってても、愚痴ひとつ返してこないわ。重傷ね、私もう知らないからね。」 茜は携帯にそう宣言する。王泥喜の声は、電源ボタンと共に消えた。 「じゃあ、私帰ります。直ぐに来るから、玄関で待ってて欲しいって。それ、あげますから、イイコで待ってたらどうですか?」 にっこりと、滅多に響也の見ることが出来ない笑顔を残して、颯爽と執務室を後にする茜を見送り、響也も観念したようにモニターの電源を落とした。 迷惑かもしれないが、おデコくんと逢えるのは正直嬉しい。 久しく顔も見ていないし、触れあってもいない。こんな事がなければ、この先いつ逢えるのかわからない日程だったのも事実だ。この状態に便乗するのも悪くない。 今日は流されてもいいか。こう考えた響也は、間違いなく熱にうかされた状態だったのだ。 content/ next |